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ハモンド・オルガンの創始者、ローレンス・ハモンドの歩み
Laurence Hammond


  多岐にわたる才能

 その発明によってひとつの産業を創り出したローレンス・ハモンドは1973 年7月1 日、コネチカット州コーンウォールノ自宅で亡くなった。享年78 歳。1960年、引退した彼は、フランスのレイゼにある豪邸、モンテビデオ、ウルグアイ、アンティグアにある別荘、ニューヨークのパークアベニューにあるペントハウスのあいだを行き来して暮らしていたが、数年前に心臓発作を起こしたことがあった。
 遺族は未亡人(旧姓ロクサンナ・スコービル)となった2度目の夫人、ミネアポリスに嫁いでいる娘のカジミール・カープアッコ夫人である。彼の一番目の夫人は20年程前、夫婦でヨーロッパ旅行から帰った直後に死去した。葬儀は7月6 日コーンウォールの教会で行われた。
 無関心で厳然とした態度のハモンド氏は多岐にわたる才能を持ったユニークな人物であった。2か国語を話し、国際人としての外見を持ち、その知的背景はただちに大学の教養学科の教授でも勤まるほどであった。若い頃に工場経営の経験を持っているので彼はただちに生産担当最高責任者の任にも就くことができた。 マーケティングが大学の卒業資格として正規の科目になる前に、彼はこの分野に大きな貢献をしている。
 ある時もう一人の製造業者が一つの計画についてディーラーの意見を聞いてみようと言うと、ハモンド氏は「何ですって、ザックさん、わが社ではディーラーに何をしたら良いかなどとはききません。何をしたら良いかを知らせてあげるだけです。」と言った。
 チェスの名手であり、景気循環に関する著書まで出した人であるが、ハモンド氏の最大の才能は“発明家”としてのものであった。
 14 歳の頃、自動車のオートマチック・トランスミッションを考案、母親はパリのルノー社に提示したらと勧めた。しかし1909 年ではまだこういう装置に興味を示す人もなく、彼はあまりにも進みすぎていたのである。彼が65 歳で引退した時、90 種の特許を持ち、引退してからさらに20 種の特許を得た。
 彼が行った発明は広い範囲に及び、気圧計の改良、無音時計、シンクロナス・モーター、オートマチック・シャッフラー付ブリッジ・テーブル、バッテリー充電器、3次元立体映画、ミサイル制御装置、リバーブ装置、そして電気、電子楽器の数々である。
 19 歳の時、水銀示差気圧計の特許を取ったが、1ドルで売ることのできるこの気圧計はきわめて感度が良く、床の上とテーブルの上の差でも、その差を示したほどである。しかし、この発明はただちに市場があるというものではなく、彼はこの発明で300ドルを得たが、発明というものは商品化されて売られないかぎり何ももたらさないものであるということを学んだ。
 「ある発明家にとって利口なやり方というのは前にやったことのある古い考案を一緒にまとめることだ」とハモンド氏は言ったことがある。少年時代、彼にとって機械技術、科学、それに発明は夢であった。当時はエジソン、フォード、テスラ、それにライト兄弟などの活躍がニュースとしてにぎやかに伝えられ、ハモンド少年は科学に関することはすべて読みあさった。
 自分自身の独創的な考案とは別に、ハモンドは電気的発明および関連分野については百科事典的な知識をもっていた。他の才能人と同じように、彼の発明の多くは以前ちょっとした要素の不足や社会の未熟さによって失敗に終わったものの再生である。ハモンドによる時計とオルガンの発明は彼の天才と共に初期の諸発明に関する彼の幅広い知識を反映している。

  恐るべき早熟な子

ハモンド・オルガン、ノバコード、最初のリバーブ装置などの発明者であるハモンドは1895年1月11日、イリノイ州エバンストンに生まれた。全く偶然であるが同じ年シンクロナス・モーターを用いた電気時計がドイツで発明された。両親のウィリアム・アンドリュー・ハモンド夫妻は息子にローレンスという名をつけた。この名は1777〜78年新大陸議会の議長を勤めた同家の祖ヘンリー・ローレンスから取ったものである。
 1898年、父親が死去、ハモンド一家はヨーロッパへ移住した。イデアこのご(創案)・ルイズ・ストロング(強い)というまことに象徴的な名前を持つハモンド夫人は絵画を志した。この後未亡人一家は11 年間スイスのジュネーブ、ドレスデン、パリと移り住んだ。
 1909年にハモンド一家がエバンストンに戻った頃には、ローレンスは14 歳、ドイツ語、フランス語をマスターし、恐るべき早熟な子であった(ローレンスには3人の姉妹がいた。3人は詩人、チェロ奏者、中国への宣教師になった)。
 ハモンドがアメリカに戻った時たまたまカヒルのテルハーモニウムが発明された。この装置は巨大な磁気発電機を用いて聴取申込者に電話で音楽を聴かせるというものであった。
 マーク・トウェインの熱烈な支持にもかかわらず、真空増幅器がなかったためこの考案は非現実的なものであった。
 1916 年ハモンドはコーネル大学を機械技術の学位を取得して卒業、デトロイトにあるマッコード・ラジエター社に入社した。1917 年彼は陸軍技術陣に参加、フランスへの米派遣軍の大尉として渡仏、友人たちによれば彼は一時同派遣軍の司令官ジョン・J・パーシング将軍の通訳を勤めたこともあるそうである。
 市民生活に戻ったハモンドは約2年間デトロイトの船舶エンジン・メーカー、グレイ・モーター社の主任技師として勤めた。この間も余暇には何かと発明制作に熱心であった。
 バネで動く時計のカチカチいう音の高さに悩まされたハモンドは、1920 年バネ式モーターを防音函の中にいれてしまった“無音時計”を発明した。この発明はアンソニア時計社によって商品化され、その収入がかなり良かったためハモンドは職を辞し、1921年ニューヨーク市に屋根裏を借りて自分の工房にした。そして、当時標準になった60サイクルの交流電気に合ったシンクロナス・モーターを発明した。このモーターがハモンド時計とハモンド・オルガンの心臓部になるのである。
 このモーターが最初に特許をとった利用法は3次元映画であった。ハモンドは情景を2台のカメラで撮影する。映写した時、重なった映像が一つの3次元映画として見られるのである。シカゴの鉱山家の相続人で娘がアドライ・スティーブンソンと結婚したジョン・ボーデンがこの仕事に“快く”12万ドルを投げ出したがビジネスとしては失敗に終わった。この映画の音楽はハモンドの義弟で高名な作曲家ポール・ティエチェンが作曲した。その後間もなく、ハモンドは一方が赤、他方が緑のメガネを発明して3次元映画を簡単なものにしたが、1922 年、この考案はジーグフリード・フォーリーズであざやかな効果を発揮した。週 350ドルの印税が入るようになって新婚間もないハモンドはヨーロッパへ長期旅行に出かけた。1925年にフォーリーズからの収入が終わり、娘の出生を目前にひかえたハモンドは資金を必要としていた。砂糖精製の特許と劇場の電気代を節約するという考案はともに失敗に終わった。電気時計を含めたその他いくつかの特許も商品化には至らなかった。
 ウェスターン・ユニオンが週 64ドルで職を提供したが、ハモンドは独立した発明家でいることを欲した。その後アンドリュース・ラジオ社のE・F・アンドリュースに会い、アンドリュース・ハモンド研究所を設立することになった。彼等の最初の発明はAボックスというもので、不安定な機械のため爆発することもある代物であったが、安定している時は電力口に直接差し込み湿電池によって作動するラジオであった。
 1928年、ハモンドは自らの電気時計を販売し始め、ハモンド・クロック・カンパニーはイリノイ州法のもと法人組織となった。彼は二つの従来の技術を結合させたのである ― その一つはシンクロナス・モーターで、もう一つは“音無時計”であった。
 ウェスティングハウスとゼネラル・エレクトリックという強力な競争相手があったにもかかわらず、ハモンド時計は繁盛し、1931年には法人税 6万9,627ドルを含み 57万7,348ドルの利益を上げた。次の年、150 社もの時計会社が破産して在庫を市場に安売した。電気時計の市場は荒廃し、リグレー・チューインガムの景品として一個 89セントでつけられる有様であった。ハモンド時計も人員を大幅に削減した。6人いた事務員は2人にした。そのうちのひとり、スタンレー・ソレンセンが 1972年ハモンド社会長として引退した人である。それからの4年間にハモンド時計社は 40万ドルの損失を出した。

  ハモンドオルガン開発

1934 年、ハモンドはその年次報告で 13万4,176 ドルの欠損を報じているが、同時に音楽産業に黄金時代を約束するある発表を控え目に行なった。
 「わが社では新製品の開発を続けて来たが、来年ある新製品を発表する計画である。この新製品が発売されるとわが社の売上量はかなり増大され、良い結果をもたらすことになるだろう」と彼は報告書に書いている。
 それから25 年後、発明者自身が引退する時までにハモンドは10 億ドルもの売上を上げている。当初 2万5,000ドルの投資は 2,500万ドルの資産になっている。
 1933 年初期、ハモンド時計社の研究所における試作ターンテーブルでレコードをかけるとレコードの音に伴って奇妙な「ピー」という音が出た。ある日ハモンドは近くにオフィスを構える同社の監査役W ・L・ラヘイに何か聞こえなかったかと尋ねた。ラヘイはオークパークの聖クリストファー教会のオルガン奏者をしていたが、フルートの音を聞いたようだと答えた。「ほんとかね? 私は電気フルートをつくったのだよ」とハモンドは言った。次の日ハモンドと彼の技師たちは熱心に電気合成による楽器音の生成に努力を傾け始めた。音楽家ではないハモンドは、生成した音の質についてはラヘイの判断に頼った。ハモンドは中古ピアノを 1台 15ドルで買い求め、鍵盤部分を残して他を全部棄ててしまった。伝え語りによれば、ハモンド研究所はさまざまな音の生成の方法論を試みたそうである。この分野における先人たちとは異なって、ハモンドの発明は彼の製造業者としての経験に裏打ちされていた。すべての製品は製造・販売の要求によって作り出されたのである。ハモンドはその仕事において常にサービス可能な条件と製造しやすさというものを盛り込むことを忘れなかった。
 1933 年半ばまでに、ハモンドは独自の音発生器に熱中していた。この発明は 30 年前カーヒルのテレハーモニュームがその原型としてあった。しかし、カーヒルの発明のように発電所の発電機なみの大きさを持つものとは異なって、ハモンドの発明は50 セント玉ほどの小さな鋼鉄の歯車であった。この歯車はその作りやすさ、サービスのしやすさという点で他のいかなる発音装置にもまさっていた。
 1934 年1月19日、ハモンドと彼のタイピスト兼オルガニスト、ルイズ・ベンケは郵便局の地下で彼の発明になる新しい器械を模範演奏し、特許の申請を行ったのである。先例のない早さで特許は4月24日認可され、この器械の生産に(不況で失業者の多いおりから)労働者が雇用されるだろうと期待された。
 その年いっぱい、さらに正式の発表数日前までオルガンは何度かの改良を加えられた。
 1935 年のハモンド・オルガンの正式デビューは経済不況が革命的に新しい楽器の出現に何の影響も与えないことを如実に示した。
 当時失業者は何百万もいた。プリマスの自動車 1台が 425ドルで、しかも大幅に値引販売されていた。ハモンド A 型オルガンは1,250ドルで値引なしで売り出された。これは時間当たり25セントの賃金が法定化される何年も前のことである。売り出し初めの数ヵ月でハモンドは 1,400台の注残を抱えてしまった。1935 年の38,256 ドルの赤字から1936年には一挙に22万8,393ドルの黒字、1937 年には36万4,680ドルの利益を計上した。同年会社としての名称をハモンド・インストゥルメント・カンパニーと改めた。

  新しい型のオルガン

 1939年、ハモンドは真空管を用いてオーケストラのあらゆる音楽音を出せる新製品ノバコードを発表した。宣伝努力にもかかわらずノバコードは大衆に受け入れられなかった。フランクリン・ルーズベルトがこの1台を妻のエレーアに誕生日の贈り物として受け取り、これは1939年の世界博覧会に出品された。
 第2次世界大戦中、ハモンドは有名な発明家チャールス・F・ケターリングと誘導ミサイル制御装置の開発に協力した。
 この結果、空中滑走爆弾制御装置、赤外線および光線感知装置による爆弾誘導装置、空中カメラ・シャッター、新型ジャイロスコープなどの特許がハモンドとその会社のものとなった。
 (空中滑走爆弾は誘導ミサイルの前身である。米国の主要なミサイル力はノーチラス型の原子力潜水艦に装備されている。そしてすべて原潜はハモンド・オルガンを搭載し、長い水中航海のなぐさみに用いている。)
 1949年以前は、米国内市場の重要性にもかかわらず、販売されたハモンド・オルガンはすべて大型、高価なプロ・モデルであった。その年、株主会への報告書にはハモンドはこう書いている------ 「われわれは目下この新しい型のオルガンの生産を行っているが、まだ広告も宣伝もしていません。内密にイリノイ州ロックフォードで公表し、同地ではかなりの数が売れましたので全米大量販売に機は熟したかと考えています。全般的な経済情勢の悪さは販売の阻害になるやも知れません。こうした情勢は多くの人によって予測されていますので今われわれが景気軟調のなかである大きさで事が行えると考えるのは愚かなことでしょう。」

 ハモンドはスピネット・オルガンの発売に踏み切った。その時から家庭用オルガンは44鍵2段鍵盤、13鍵のペダルというのが定型となった。
 1940年、フィラデルフィアのフランクリン協会はハモンドにジョン・ウェゼレル賞メダルを与えた。同年、全米製造協会は彼に現代開拓者賞を与えた。 ハモンドは経営権を血統によって継承させることは良いと信じなかった。1955年社長を退き、研究に専心することにした。
 1960年2月12日、65回めの誕生日のちょうど1週間後に彼は会長の地位からも引退した。引退後は音楽産業からいっさい身を引き、会社の政策に関しては間接的にさえも関わることをしなかった。

翻訳 波紋度好子

Laurens Hammond 1896-1973


1935-2002

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